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大震災・大津波のエピソードまとめ
インターネットの掲示板やブログ等に点在している、3.11東日本大震災や大津波の貴重な体験・エピソードを中心に、拾い集めて記録します。311以降、津波に注目が集まりがちですが、阪神淡路では家具の下敷きになったり、火事で犠牲になっている方が大勢います。エピソードを読んで、地震の怖さ・対策も忘れないようにしたいと思っています。
震災発生時は、町役場にいました。強い揺れが長く続き、庁舎がきしみました。
津波は午後3時半ごろ役場に到達し、庁舎前の車が流されました。3階に上ったとき、女川港の灯台が波にのみ込まれるのを見て、ほかの職員、住民とともに4階ベランダを目指しました。
センターは道路を挟んで、役場の向かいにありました。茶色の濁流は水位を増しながら、役場とセンターの間を大河のように流れました。センターは屋根の一部を残して水没していました。職員と利用者のことが心配でした。
水が役場の4階ベランダに迫ったため、はしごを登って塔屋に避難しました。お年寄りを引っ張り上げ、車いすの女性は消防ホースでつり上げました。
水が引いた夕方、役場の裏山に脱出しました。センターの職員と利用者全員の無事を確認できたのは、翌12日のことです。
2011年07月29日金曜日
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1074/20110729_01.htm
関連:女川で「屋根まで水没した建物」に避難して生還した人の話
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もっとも津波の激しかったエリアで、奇跡的に生還した前田拓馬さんの話が面白かったので、簡単に紹介します。
前田さんは宮城県の石巻で弁護士として活動するようになって半年後に大震災にあいました。
直接被災して場所は女川生涯学習センターで振り込めサギなどについて講師をしていたそうです。
大きな揺れがあったのは講座が終わって間もないころ。
そのときに受講生はほとんどが帰ったあとでした。
数日前にも大きな揺れがあったので、とくに動揺もなく、余震の合間にセンターの職員と協力して倒れそうなものを倒したりしていたそうです。
津波が女川町に3時ころに到達するという情報も入ったので、津波が去ってから石巻に帰る予定で、センターの職員とともに2階に避難しました。
昭和35年のチリ大震災のときも、津波といっても駅のホームが濡れる程度だったので、今回もそんな程度だろうとみな話していました。
3時15分ころ、大雨で排水溝があふれるように、津波がやってきました。
駐車場の自分の車を見ていたら、ほかの車とともに流されてしまいました。
津波は徐々に水位があがる感じで、アニメなどにみられるような、大きな波の形はしていませんでした。
次第に水位があがってくるので、上のほうに避難しました。
最終的にはセンターの5階にある機械室に避難しました。
機械室は窓などが一切ない部屋で、窓のない階段をあがったところにあります。
室内は重油のにおいが満ちていました。
機械室に避難してまもなく、ものすごい突風が吹き込んで、入り口の鉄の扉に手を挟まれた人が出たので、みなで助けました。
そして、すこしずつ水が入ってきました。
水を出しっぱなしにしている浴槽のように、徐々に水位があがってきて、最終的には腰の辺り、スーツの下が濡れるくらいまであがってきました。
この間、避難している人たちは子供を機械の上に上げたり、車椅子のお年寄りを配管の上に上げたりしました。
とても緊迫した状況なのですが、目の前の出来事に対処するのが精一杯で、死の恐怖などは感じませんでした。
あとからわかったことですが、このときにすでにセンターは屋根の上まで水につかっており、私たちの避難していた機械室は水面下にあったそうです。
高台からセンターをみていた人は、このセンターの人たちはみんな死んでしまったと思ったようですが、
浴槽に洗面器を下にして沈めたような状態で、空気があった助かったのでした。
窓がなく外の様子がわからないので、センターの職員が階段の下にある扉をあけて外の様子を見ようとしたところ、すでに水がそこまできており、
そのさいに2人の職員が外に流されてしまいました。あわててもう一人の職員が扉をしめたそうです。
外に流された職員2人はベランダの柵にひっかかって助かったそうです。
津波の第一波が去ってから、第二波が来るまでは時間があり、その間に機械室にいすなどを運び込みました。
下の階には建物の残骸などが無数にあり、足を釘で踏み抜くアクシデントもありました。
この時間に高台に避難しようとした人たちもいましたが、第二波がやってきてすぐに戻ってきました。
1人だけ高台に避難を強行した人は流されてしまったようでした。
第二波は2階ほどの殿高さでしたが、立て続けに第三波、第四波がやってきました。
最後の第五波がとても大きな波で、渦を巻いたま水位が上昇し4階天井あたりまできました。
水位の上昇を観察できているので、最初のときよりも恐怖感は強かったです。
第五波がきてまもなく夜になりましたが、機械室は重油の匂いがするので怖くて火が使えませんでした。
明りはセンター職員の持っていたLEDスタンドでなんとかとりました。
機械室にあった重油まみれの雨漏りシートのようなものを、偶然避難した人がもっていたハサミで切り分けたりしましたが、とても寒く、寝たら死んでしまうのではないかと思えるような状態でした。
津波はまだ残っているものの、少し下の階にいけるほど水位が下がったので、希望者をつのってトイレに行ったりしました。
職員の中には、下の階の自分の机に財布を取りに行ったところ、机ごとなくなっていた人もいました。
この夜の間、機械室で過ごした時間がともて長かったです。
避難している人たちの中で唯一弁護士ということから、財布を身分証ごと流された人や、建物が流されてローンと土地だけが残った人の相談などを受けました。
最初はいろいろと話をしていたのですが、3時をすぎたあたりから皆口数もなくなりました。
寒さに震えながら、じっとしているのですが、時間が非常に長く感じられ、もう1時間たったかと思って時計を見ると、まだ10分しかたっていないという有様でした。
ぐっすり寝ている子供の寝顔に心が休まりました。
このころになってやっとで避難した人数を数えたところ、28人でした。
5時ころ、空が明るくなってきました。
外から日の光が差し込んだときには、小さな歓声が上がりました。
夜が明けて外の様子をみると、女川駅はホームとトイレを残してなくなっていました。
夜が明けてうれしいのですが、変わり果てた町の姿をみて、複雑な心境でした。
夜明けから1時間以上たった6時20分過ぎ、やっとでセンター周辺から津波がなくなったのを確認して、みなで脱出しました。
http://www.janjanblog.com/archives/45634
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