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大震災・大津波のエピソードまとめ
インターネットの掲示板やブログ等に点在している、3.11東日本大震災や大津波の貴重な体験・エピソードを中心に、拾い集めて記録します。311以降、津波に注目が集まりがちですが、阪神淡路では家具の下敷きになったり、火事で犠牲になっている方が大勢います。エピソードを読んで、地震の怖さ・対策も忘れないようにしたいと思っています。
被災当日、私は野田村の事務所で仕事中だった。
「あ、携帯電話に地震警報がきてます!」
部下の携帯電話が聞きなれない音を発しているうちに大きく長い地震が発生!いつもなら十数秒で収まるのに、1分以上も続く大きな揺れ。地震中に停電発生、幸い物が落ちたりはまだない。暖房を止め、事務所外に退去。外も揺れている。収まらない。情報が欲しいので、駐車場から愛車をよせ、カーラジオをつけた。
「ただいま、岩手県から宮城、福島県にかけて非常に大きな揺れを観測しました。マグニチュードは…、津波の発生にご注意ください!」
大きく揺れる車から、IBCアナウンサーの重々しい声。なんか今回のはやばくない?
「大津波警報が発令されました。予想される高さは3メートルから7メートル、推定到達時刻は・・・」
きた!大津波警報だ!今回のは地震も大きいし、なんかいやな予感がする!事務所内外にいる職員に呼びかけた。
「逃げませんか?!」「事務所内は可能な限り施錠して一度高台に避難しましょう!窓口対応時間は過ぎたし停電だし、何も無ければ戻ればそれでいいと思います!」
近くの児童たちも消防団員誘導のもと避難を開始している。これはくるかな…?
防災無線からは相変わらず「大津波警報発令、高台に避難してください!」との放送が鳴り響く。
まもなく消防車のサイレンが鳴りはじめ、拡声器から絶叫が聞こえた。
「津波がきたーーーー!逃げろーーーーーー!!」
よし、逃げよう!
「中学校か高校の高い方に逃げろ!そこで落ち合おう!」
周囲にいた職員たちは、車で、あるいは徒歩で逃げ始めた。あとはいないか?2人ほどまだ残っていたので自分の車に乗せ、私も車を走らせた。あせってはいたけど、まわりがゆっくり動いて見える。久慈工業高校への進路が開いていた。迷わずそちらに走る。後ろを見る余裕は無い。まもなく工業高校に到着。他の避難者の車で止め場所が少ない。同僚の車を探すが見当たらない。みんなは中学校の方にいるかもしれない。津波はきたのだろうか?様子見に戻ることにした。
農協まで数十メートルのあたりで津波に進路を塞がれていた。消防団員から此処から先は通れないと迂回を指示された。源平坂と呼ばれる所に車を廻らせ止めた。降りてみると、橋の下の川に車が流れている。まじかよ?!人は乗っていない。そこで農協の方を見ると、家の屋根やら車やら木材やら泥水で、とても近づける状況ではない。また、消防団員に返される。建物は形があるけど、中はどうなったのだろう?どこか見渡せるところはないか?
車を走らせ、下泉沢地区の高台に廻ってみた。避難者が絶望の声を上げている。そこから見下ろすと、南浜地区から三日市場地区の家々が見渡せるはずなのに、無い。あるのはどす黒い水溜り、たまにぽつんと家の屋根が見える。なにこれ?本当に大津波がきてしまった。うそだろーー??高台の下まで水が来ていて、そこからはとても行けそうにない。南浜地区か米田地区のどこかで火災が発生したようだ。黒煙が見える。でも、誰も何もすることが出来ない。人は大災害の前では無力だ。まだ余震は続いている。ここも決して安全と思えない。他の皆は大丈夫か?中学校に行ってみることにした。
中学校に着くと、車で逃げた同僚が多数避難していた。他にも学生や避難者で一杯だ。お互いの無事を確認しあうとともに、情報を求めて、カーラジオをつけ、携帯電話にかけてみた。携帯は中々繋がらない。何人か同僚と繋がった。帰るときは一緒に、とか明日の行事は中止だよね、とかやり取りする中で、久喜地区。(久慈市の海沿いの高台)の同僚と連絡がつく。地震のあと、すぐに自宅に戻って無事だけど、今も津波が押し寄せている。まだ大きな波が来ているから気をつけて!とのことだ。なんてこった!
余震が続き、大津波警報が解除されない中、私の名前を呼ぶ人がいた。取引先の「いわちく」の営業マンだ。ビニール袋に濡れた衣類をいれている。
「十府ヶ浦付近の国道45号線で津波に巻き込まれました。波を受けたとき、45号線には他にも車がいっぱい走っていたし、十府ヶ浦で海を眺めていた人や車も見かけました。消防車やパトカーもいました。そこにいた人はほとんど駄目だと思います。自分は冷凍車のコンテナが浮いてくれたので車ごと流されてきて、コンテナの上によじ登り、泳いで(川?津波の沼?)この近くまでたどり着きました。服を借り、途方にくれていたら(私を)見かけたので、きました!」
「よく生き残れたねー!よかった!本当によかった!」
この奇跡の生還者の情報によると、国道45号線を走行中の車は多く、死傷者は二桁では泊まらないのではないか?とのことだった。どれぐらい大きな津波だったのだろう?いったいどれぐらいの人が死傷したのだろう?少なくても野田村の街中の被害は甚大で死傷者もでているだろう。無論通れないし、国道45号線も十府ヶ浦付近で遮断されたと判断できる。他の市町村は?私の家族は?携帯は極端に繋がらなくなっている。ラジオから各地の被害情報が断片的に入ってくる。八戸市では流される漁船群、久慈市では石油備蓄基地が壊滅的被害、大船渡、山田、陸前高田、旧田老町も壊滅的被害を受けているという。城塞都市のごとく防波堤に囲まれた旧田老町までもやられている。よほど大きな津波であったのだろう。幸運にも私は津波の瞬間を直視していない。それは、生命の危険から逃げ通せたことに他ならない。
玉川地区の職員や産直店の女性部部長が自宅に戻りたいというので、山側の道を伝い、それぞれ付近に送り届けた。まだ被災の情報は不明のままだ。玉川でガソリンスタンドに車が集まっていたのでよってみた。同僚が1人いて、被災後45号線を普代村から北上、これ以上北上できないとの情報を得た。あ、なんとか家には帰れるんだ。手給油でいくばくかの燃料を補給した後、集結地の中学校に戻った。
中学校に戻った頃には、周囲はすでに暗くなり、雪が降り始めかなり寒くなってきた。久慈方面の職員達に乗りあわせで帰宅、いわちくの営業も乗せて行き、なるべく一人での行動は避けよと指示した。他の地元の職員にも帰宅を指示。中学校では柔道場に被災者避難場所が設置されていたので、屋外で震えている避難者をそこに誘導した。そのうち完全に暗くなった。ここではもう、今、私に出来ることはない。私も帰宅することとし、同方面の同僚を一人伴い、後ろ髪を惹かれる思いで野田村を後にした。
真っ暗な我家の中に薄明かりが見えた。両親と、家が海に近い親戚が避難してきている。蝋燭を灯し、反射ストーブを焚き、一つ処で寄り集まり寒さを凌いでいた。まもなく、ガスで炊いたご飯のおにぎりが出てきた。おにぎりの温かさに自分が生きていることを実感し、かみ締めて食べた。
その後のラジオからのニュースで、岩手以外の被害の甚大さを知った。宮城県気仙沼の被災後の大火災、仙台空港浸水、特にも福島原発の事故は核爆発や放射能漏れ等、最悪の恐怖が控えている。この状況では八戸市の飼料コンビナートもタダでは済まないだろうな、飼料も燃料も、そして我々の食料も。これからの苦難を予見し、死に物狂いで頑張る覚悟を決めた。余震のたび起こされながら、不安な夜は明けた。
簡単な朝食を済ませ、被災状況の確認に出かけた。途中、被災した海辺や町並みを画像に納め、改めて津波の恐ろしさを実感した。UPした画像のごとく、農協の事務所周りも酷いものだった。外は足の踏み場もなく、何から手をつけたらいいか途方にくれた。事務所内は向きによっては被害軽微な所もある。私の事務所がそうだった。浸水はしたものの、書類やPCは大丈夫そうだ。南部福来豚の神様が守ってくれたようだ。あらためて、神棚に感謝の祈りを奉げた。まずは、事務所機能復旧に向けて早速仕事が始まる。また、畜産担当として、飼料、出荷、の方向性を探らなきゃならない。電気も電話もネットも水も、何もなくてもやらなければならない。あるのは愛車と数台の稼動可能な車輌と休めるだけの事務所と携帯電話だけ…。そこから私たちの復旧活動が始まった。
書き始めたら止まらなくなりました。続きはまた後日に。
このたびの東日本大震災により被災、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。
http://blogs.yahoo.co.jp/nakai4218/63009939.html
テーマ: 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~
ジャンル: その他
内陸の登米市方向に進路を変えました。高台にある本吉駅を通り過ぎて坂を下りると、トラックの運転手に、引き返すように促されました。来た道を戻って振り返ると、見下ろした先に、大量の茶色の水が押し寄せて来ました。
ゴーという地鳴りのような音とともに、家、車、木材、牛が次々と流されてきました。津波の色はだんだん濃くなり、最後は真っ黒でした。
海とは逆方向なのに、津波が来たことにも驚きました。少しタイミングが違ったら、自分も津波にのまれたかもしれないと思うと、急に怖くなり、腰が抜けました。
駅の隣のコミュニティーセンターで一夜を過ごし、翌日、車で山道を通って自宅を目指しました。不安でしたが、出会う人に励まされたり、助けられたりして、日没前に帰宅できました。
孫は私の生きがいです。避難所で再会できて、ほっとしました。
2011年06月24日金曜日
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1074/20110624_01.htm
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テーマ: 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~
ジャンル: その他
だが、そんな極限状況でも、人間は光明を見いだすことができる。それを証明してくれる孤立集落を、本誌は訪ねた。
「海岸に1000体以上の遺体」と報じられた宮城県牡鹿半島の付け根、石巻市にその避難所はあった。
名前は明友館。元々は市のコミュニティセンターだった。実はここ、行政が指定する避難所ではない。そして、本吉町や山田町と同じく、道なき道を進まないと辿り着けない。だからマスコミは来ない。
被災者たちは記者を招いて言った。
「これ食べなせ。あんたらも、寒い中何も食べてないんだろう?」
カセットコンロで温めた雑炊を差し出してくる。「あんたたち、初めて取材に来てくれたから」と記者の手を握る。
明友館のリーダーは32歳の青年・糸数博さん。同センターの職員だった。
「他の避難所では、やはり家族単位でかたまって窮状を訴えるケースが多いときいています。ここは違う。皆が家から食料を持ち寄って、それをすべての人が分け合うのです」
もちろん電気も水道もガスもない。真っ暗な夜には氷点下まで冷え込む。それでも人々の心に温かい火が灯っている。
雰囲気作りに一役買っているのが、「社長」と呼ばれる今野雄夫さん(56歳)。地元名物「かき飴(牡蠣のエキスが入った飴)」を製造する会社を経営していた。ヘドロに埋まった在庫を掘り起こし、洗って避難所に持ってきた。
「工場も壊れた。もう二度と作れん。気張って登録商標とったのに(笑)。せっかくだから持ってけ」
そう記者に押しつける。
「もう何もない。家もない。会社もない。車もない。あるのは借金だけだ(笑)」
でも、と社長は続ける。
「俺らには命がある。せっかく生き残ったのに、下向いてちゃダメだ。さっきも『みんなで居酒屋でも始めるか』って盛り上がってたとこなんだ」
明友館の2階には酒も置いてある。記者が訪ねた震災6日目、それを祝ってというわけでもないのだろうが、彼らは被災後、初めて酒を飲んだ。
町長以下、行政幹部がほとんど津波にさらわれた岩手県大槌町では、役所職員で一人残った佐々木健さん(53歳)が避難所のトップとして毎朝集会を開き、岩手県庁に意見を伝えている。
「夫に死なれた若い妊婦がいたり、どこも極限状態。でも誰かが指揮をとるしかありません」
命があるだけ、自分は幸せだ。そう語る被災者に何人も会った。もう一つ、誰もが思っている。
あなたが生きてさえいてくれたら---。
暗く沈んだ避難所が、花が咲いたように明るくなる瞬間。それは、愛する人との再会劇だ。
「なんで連絡くれなかったの! もう死んじゃったかもしれないって・・・。この子を抱いて」
岩手県大船渡市の盛小学校。生まれたばかりの赤ん坊を、母親がおじいちゃんに抱かせる。祖父の目からとめどなく涙が流れる。
生まれたのは地震のわずか2日前。退院を待ちきれなかったTさん(62歳)は、11日、県立大船渡病院に孫の顔を見に行った。
地震に襲われたのはちょうどその時だった。泣きわめく娘と孫に覆い被さる。ようやく揺れが収まると、院内に津波を報せるアナウンスが流れた。
「その瞬間、自宅にいる妻と幼稚園にいる上の孫のことが心配になった。娘に『病院は安全だから、ここにいなさい。お父さんは家に帰ってお兄ちゃん(上の孫)を保護する』と伝え、なかば放置するような格好で病院を去ったのです」
自宅に戻る途中、津波に行く手を阻まれ、車を捨てて逃げた。娘は行方不明になったTさんを「死んだ」と思っていた。
盛小学校の避難所には新生児室がある、という情報を知ったTさんは這うように小学校を訪ねた。そして最愛の娘と孫に再会した。
妻と上の孫は無事だったが、実は娘の姉、つまりTさんのもう一人の娘は、いまだ行方不明。孫との再会の直後、Tさんは「最悪のケースも考えている」と表情を曇らせた。
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/2322
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