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大震災・大津波のエピソードまとめ
インターネットの掲示板やブログ等に点在している、3.11東日本大震災や大津波の貴重な体験・エピソードを中心に、拾い集めて記録します。311以降、津波に注目が集まりがちですが、阪神淡路では家具の下敷きになったり、火事で犠牲になっている方が大勢います。エピソードを読んで、地震の怖さ・対策も忘れないようにしたいと思っています。
崩壊した宮城県東松島市。大津波から保育所園児の救難に当たった先生の証言だ。取材にあたっている笠井信輔アナが、やっと娘と孫の無事を確認できた年寄り夫婦と、津波から園児を守った先生たちの模様を伝えた。
「助けてと言われても両腕に子ども」
笠井が14日(2011年3月)、瓦礫と化した被災地で出会ったのが娘と孫の行方を捜す72歳の尾形寛一・とし子夫婦。笠井は避難所や知り合いの家を訪ね回る夫婦に同行し、最後に向かった先が地元小学校の避難所だった。
「尾形茉美って言いますが」と尋ねると、その声を聞いて近寄ってきた女性が「大丈夫よ。ここにはいないけど、お母さんと一緒にいる。別の場所に移動した」と伝える。「大丈夫よ、大丈夫よ」の何度もの声にお祖父ちゃんの目に涙が光る。
娘と孫が避難しているところへ向かう尾形さん夫婦が途中で出会ったのが、孫の通っている保育園の後藤悦子先生ら3人だった。大津波の時、後藤先生たちや娘と孫はこの小学校に避難していたという。
先生たちはその時の模様を涙ながらに語った。地震発生で最初に避難したのは小学校に隣接する体育館だった。
「『津波だ!』の声と同時に波が押し寄せてきました。そばにいる子供たちをステージに上げ、自分もステージに上がって子どもたちを抱かかえながらカーテンにしがみついた。でも、逃げ場のない人たちもいて、お年寄りがどんどん水に沈んでいった。自分たちは両腕に抱えた子供を守るのが精一杯。『手を出して、助けて!』と言われても助けられない。子どもたちはそうした光景を見ているの…」
波に浸かったまま深夜まで
スタジオでじっと聞いていた小倉智昭キャスター「これは辛かったですね」と言うのが精一杯だ。
その後、助かった先生や子どもたち、お年寄りは波に浸かったまま体育館に閉じ込められ、深夜になってようやく隣の小学校に避難した。
笠井「服が乾き切らないまま生活しているお年寄りも少なからずいるんです」
そんななかで、こんな話もある。助かった子どものなかに15日に誕生日を迎えた子どもがいて、「ケーキもローソクもないけど皆でお祝いをしました」という。後藤先生も「5歳の誕生日を迎えられて良かった」と話している。
http://www.j-cast.com/tv/2011/03/15090488.html?p=all
テーマ: 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~
ジャンル: その他
前日午後3時過ぎ。他の家族6人と自宅1階にいた村井さんは「ゴーッ」といううなるような音と、「津波だ!」と外で誰かが叫ぶ声を聞いた。89歳の父と足腰の弱った88歳の母を2階に担ぎ上げ、小学生の孫2人ら家族全員が2階に避難しおえた約30秒後。窓が割れる大きな音とともに水が家に入ってきた。
ふと隣の家を見ると、屋根に顔なじみのおじいさんが1人で避難していた。「がんばって!」。窓からみんなで必死に声をかけた。だが、日が暮れるとおじいさんの姿は見えなくなった。
明かりは懐中電灯とロウソクのみ。布団に家族みんなで入って暖めあった。
朝、明るくなったとき、おじいさんの姿は屋根の上になかった。だれも救助に来た形跡はない。「何もなければいいのだけれど」。救助車の中で村井さんが顔を曇らせた。
小高区大井の中山ユキ子さん(69)は夫で農業の隆さん(69)と11日から連絡がとれていない。
隆さんは地元の農家と海岸近くの共同農場を運営している。地震発生当時は、同僚と2人で農場でトラクターを使い、大豆の種をまく作業をしていたという。ユキ子さんが自宅で待っている間、地震が起きた。
避難した同僚の男性によると、隆さんは「おれは作業を終えてから戻る」と言って1人残ったという。ユキ子さんは「ここは、こんな大津波が来ることは今までなかった。本人も津波が来ることを知らなかったのではないか」と悔しそうに話した。
新田川の河口近くに位置する市東部の上渋佐地区は、集落のほぼすべてが津波にのまれた。海岸から1.5キロほど離れた内陸でも、磯の香りが辺りに漂う。倒壊した家屋、押し流されてきたとみられる屋根、傾いた電柱。ぞうきんを絞ったようにねじれた車が折り重なっている。
難を逃れた数人の住民らが自宅の様子を見に来ていた。「どこが道路? 家がなくなっちゃった」。口元を両手で覆い、ぼうぜんと立ちつくす。「避難所が寒いから」と、散乱している泥まみれの上着やタオルなどを拾って持ち帰る人もいた。
橋本正雄さん(67)は地震発生時、立っていられないほどの揺れに襲われた。ダダダダダダ――。家の中で物が飛び、屋根瓦が落ちた。「家がつぶれる!」。妻の美紀子さん(62)と外に飛び出た。
「津波が来るぞ。逃げろ」と遠くで誰かが叫んだ。巨大な黒いカーテンのような波が家々に覆いかぶさり、こちらに向かってきていた。車に飛び乗り、海と反対の方角へ逃げた。
高台の親類宅で眠れぬ夜を過ごし、明るくなるのを待って自宅を見に来た。木造平屋建ての建物は姿をとどめていたが、中は泥に覆われて足を踏み入れられない。「この辺りには50軒以上の家があった。隣近所の人たちが無事なのかすら分からない」。橋本さんは声を震わせた。
南相馬市によると、道路が寸断され、100人単位で孤立している地区もある。「集計が追いつかず、誰が行方不明かわからない」と担当者は話した。(古庄暢、富田祥広、茂木克信)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103120368.html
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7年前に結婚して、去年の3月から家内の実家がある南三陸町で義父母と同居を始め、僕は南三陸町志津川にある特別養護老人ホーム慈恵園という介護施設で勤務していました。
震災のあった日も、勤務中で施設の利用者は68名いました。
地震が起きてすぐに利用者を居室から誘導して、外に出したのですがその日はあいにく雪が降っていてとても寒かったので利用者をもう一度ホールに戻してしまいました。
そもそも、僕の勤める介護施設は高台にあり指定避難場所にもなっていました。
正直、僕はいくら津波が来てもここまでは来ないだろうというたかをくくった部分も
あり、このあとあんな悲惨なことが起こるとは予想もしていませんでした。
しかし近所にあった大きなスーパーまで流されてきて、このままではまずいと思い裏山の上にある志津川高校に利用者を運びました。
津波が施設を襲来してきたとき僕は施設の中にいて、気がつけば水は僕の足首まできていました。
この時点で、施設利用者はまだまだ施設内にいて僕は仲良くしていたお婆さんの手を引き、こっちだこっちだって逃げているときに施設と裏山の間に溜まった水が居室の窓を破って中に入り込んできたため、施設内の水かさは一気にあがって頭の上まで泥水に浸かり、この時はもうだめだと思いました。
ここで僕とお婆さんは離れ離れになってしまい、僕はとにかく上に行って酸素を吸おうと思い上に行こうとするのですが、流れもあり施設内の車椅子やベットやテーブル等さまざまな物が流れていてなかなか思うように水面に上がることができませんでしたが、何とか水面に顔を出すことができて呼吸ができました。
その時僕の目に飛び込んできたものは、浮かんでいたタンスでした。そのタンスにしがみついたまま施設の中を流され、通路を曲がったところで引っかかって施設の外にほうり出されずにすみました。
もしこの時に外に出されていたらいろんな物に押しつぶされて死んでいたと思います。
どのくらいの時間泥水に浸かっていたかは覚えていませんが、徐々に水が引いていき水が引いたころにはタンスが僕にのしかかて身動きがとれませんでしたが全身ずぶ濡れで寒かったことは覚えています。
それから少しづつ動いてなんとか施設から脱出することができました。
水が引いて、目の前に広がる景色はとてもこの世のものとは思えないような、
まさに地獄絵図でした。
施設内にはまだ虫の息ですが、生きている人がいたので応援を呼びカーテンを引きちぎってそれにくるみ裏山の高校に運びました。
68名の利用者がいて生存が確認できたのは24名で、その中の4名はその日の夜に亡くなってしまいました。
ユニットの掃き出し窓から外を見たときに海と町の境界線のあたりが黄色っぽく見えて、後で思えばあれは津波によって押しつぶされて倒壊した土ぼこりだったと思います。
僕には、今年の春から小学1年生になる娘が一人いるのですが、地震のあった時間帯はまだ保育園にいる時間帯でしたし、携帯も繋がらず家族の安否がわからないまま不安な夜を過ごしました。
地震のあった翌日からは戦場でした。
生存者の捜索と平行して、けが人や容態の悪い人のヘリ搬送、食料の確保、遺体の確認。
僕がやりきれなくて辛かったのは遺体の確認でした。
もうなんて言ったらいいのかわからない、僕だけ助かって良かったのだろうか申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
僕の家族の安否がわかったのは地震から4日後の事でしたが、幸い全員無事でした。
この4日間は僕にとってとてつもなく長く不安な日々でした。
利用者の20名中、11名がヘリ搬送、4名は家族の元へ帰して、家族の行方のわからなかった5名は隣の市にある介護施設で引き受けて頂きました。
僕が家族の元へ帰ったのは、震災から1週間が経ってからでした。
当然、海岸の近くにあった自宅は跡形もなく流されてありませんでしたが、ないものは仕方がないしそれよりも大事なことはこれからどうするべきかだと思います。
僕が避難しているところでも7名の方が津波の犠牲にあいました。
僕たちが避難している馬場中山生活センターは、2つの行政区で管理運営している集会所で僕の義父が馬場地区の契約会の会長をしていて日中は会社に行っているため、僕は中山地区の会長の右腕として食料の調達や燃料の管理を中心にこれからの集落の復興の方向性等を蜜に相談してやってきました。
支援物資を受け取りに、行政に行けば1回も避難所に足を運んでないのにも関わらず、あなたの避難所には十分なほど物資を渡しているので、明日とりにきても何も渡しませんと言われたこともありました。
震災から10日位したころから、ボランティアの方々が足を運んでくれるようになり、僕はその方々とコミュニケーションをとりながら窓口になって次のスケジュールを決めたりしていくうちに同じ方が何度も僕の避難所に来てくれるようになり、行政からの支援は受けなくても済むようになってきました。
僕のところには毎週2回レギュラーで炊き出しが入ってくれています。
近くのコンビニの駐車場ではチームやんじーが毎日炊き出しをしてくれています。
僕は、毎日その駐車場に通いおかげさまでおいしいものを食べさせてもらっています。
また今後の課題として、この大震災で職を失った人がたくさんいます。
これから仮設住宅に移り各家庭での生活が始まろうとしていますが、雇用の場がないので法人を設立して産業と経済の発展に少しでもつなげることが出来ればと思っています。
僕は、この大震災で失ったものは多いけれど、それ以上に得たものも大きいと思います。
亡くなられた多くの方や、いろんな形でご支援をしてくださった方々に出来る御礼は1日も早い復興だと思いますので、これまで以上に地域一丸となって頑張っていきますので今後とも応援よろしくお願いします。
馬場中山生活センター 三浦 光太郎
http://ameblo.jp/aoneonsen/entry-10912086928.html
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