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いろんな方向から大きな引き波が次々とやって来て

  3月25日に訪ねた相馬市柚木の老人保健施設「森の都」には、同11日の地震と津波の後、13人もの避難者が助けを求めて駆け込んだ、と聞きました。浜から逃れてきた1人の母親は、「黒い鉄の壁だった」と語り、「がたがたと恐ろしげに震えていた」と。「黒い壁」「鉄の壁」という言葉は、それから郷里で会った何人もの口から聞くことになりました。

  相馬の街は、相馬氏の根城「馬陵城」を囲む旧城下の中村地区と、いずれも漁港がある原釜・尾浜(相馬港と海水浴場も)、松川浦、磯部という「浜」の地域に大きく分かれます。その間は距離にして4キロほど。ですから、中心市街はもちろん津波を免れました。
  私の実家は中村のはずれにあり、周囲の被害はもっぱら屋根瓦が落ちたり、古い蔵の壁やブロック塀が崩れたり、というところでした。
  実家も屋根瓦が落ちたのですが、修理されたのは2週間後。ようやく来てくれた瓦屋さんは、「なにせ700軒分の修理が待ってるもんだがら…」。地震の揺れの大きさはうかがい知れました。

  先輩の夫婦が営む中村の街の喫茶店に立ち寄った時です。「これからどう生きようか。これからが大変」と、涙声で語る中年の女性客がいました。「職場も家も流され。子どもたちは、東京近郊に勤める上の娘の所に避難させたままで」。郷里の浜を襲った津波の話でした。
  港に近い勤務先の製材工場では、事務所1階の神棚の高さまで水が上がり、積んでいた木材数百本がすべて流されたそうです。「製材業は厳しいんだよ。ここまで、みんなで頑張ってきたのに」
  たまたま親から電話で呼ばれて事務所を離れ、その偶然で津波から助かったそうです。「私は泳げないから。命はなかったでしょう」

  どんな津波が来たのか。翌26日、松川浦へ車を向けました。

                           ◇

  松川浦(古名・松ケ浦)は名の通り、潮の満ち引きで広い干潟ができる浦に、松の島が点在しています。東北では潮干狩りの名所の1つで、養殖の海苔も名産です。私は大学生のころまで、夏はハゼやカレイを釣りに行きました。浦に沿った県道には、釣りの貸し舟や道具の店、民宿や旅館、炭焼きの香りを漂わせる魚の店が建ち並んでいました。

  その松川浦に至る2キロほど手前から、見慣れた風景は失われていました。
  道路脇に大きな漁船がモニュメントのように横たわり、がれきを浮かべた泥の海がその先に広がっています。県道上だけは、がれきが取り除かれていましたが、やがて、またも目を疑いました。美しい浦に、家が浮かんでいたのです。湖上のキャビンのように。車、マイクロバス、ひっくり返った漁船も。

  にぎやかな沿道の町は夏の幻影だったのか、どの家もがれきの山に埋もれ、1階部分はめちゃめちゃになり、床は泥まみれでした。
  かろうじて壁や柱は持ちこたえ、流された家は当たりません。ある水産物の店先では、家族総出で片付けに追われていました。皆、防水の作業合羽とゴム手袋という浜のスタイルです。

  何年記者をやっても、被災の現場では取材が一瞬ためらわれるのですが(地元であろうとなかろうと)、ともかく津波が来た時の模様を聞いてみることにしました。
  「すみません」と声を掛け、名刺を差し出すと、さすが、からりとした浜の人でした。「ああ、おれは津波の時、いながったがらな。待ってろ、生きて帰ったやづがいっから」と、親類の若い男性に声を掛けました。

  菊地良治さん(42)という松川浦漁港の漁船員でした。潮に漬かった家財道具を集積場に運んだ足を、こちらに向けてくれました。海の男らしい、いい笑顔でした。
                
                        ◇

  「大津波警報が出ると、漁港につないだ船にすぐ飛び乗って、沖に出したんだ。約100そうが、沖に逃げた」。係留したままでは、津波に巻き込まれてしまうからです。 
  津波の到達までは時間があり、4キロ先に至ったそうです。そこで津波をやり過ごそうと待ちました。大したことはあるまい、と。しかし。

  「500メートルほど先に津波が見えた。たまげたよ。三角のとがった山みたいな、壁みたいな波で、7~8メートル、いやもっとあったろうか。そのままじゃ、のみこまれそうだった」
  沖合で船乗りたちがそれぞれ瞬時に決意したのは、真っ正面から「波を乗り越えよう」ということでした。
  「大津波に向かって、船を走らせたんだ。だけど、全速で突っ切ると、波の上で、ぼーんとはね飛ばされちまう。 だがら、波の一番てっぺんで減速して、うまく乗り切らなきゃならない。命がけだったよ」

  そして、まるで船の山登りのように波の壁を乗り切り、「越えたなぁ」と、ほっとしたのも束の間でした。
  「そうしたら、同じくらいの距離を置いて、また壁のような第2波が見えたんだ」。 覚悟を決めて、もう1度挑んだそうです。
  「それを越えたと思ったら、またその次の壁がやってきた」「津波と津波の間隔がすごく短いものもあった。全部で6つか7つ、越えたろうか。気がついたら、15キロ沖まで逃げていたんだ」
 
  大津波との闘いは日があるうちに終わりましたが、いろんな方向から大きな引き波が次々とやって来て、「(宮城県)亘理町の方からも来た」。浜という浜の集落をなめつくした「帰り波」だとは、海の男たちにもまだ分かりませんでした。

  「漁業無線で陸の状況を聞いたら、『警報がまだ発令中だから、収まるまでそこにいろ』という。仕方なく、海の上で一晩を明かしたよ。船に食料の用意もなく、急に腹が減って、どうしようもなかった」
  松川浦漁港への帰りは翌日の昼前。途中の沖合では、「ゴミが流れてたまる潮目に、ありとあらゆるがれきが集まっていた」。 もはや、陸(おか)の惨状は疑いようのないものでした。 「ぶつかると危ないので、慎重に避けながら進んだんだ。誰かいないか、助けられないか、と思って、目を皿のようにして探した。けれど、がれきの間から手を振る人もなかったな」。

                          ◇

  話を聴き終え、店の向かいにある「水産物直売センター」を抜けて、松川浦に面した岸壁に向かいました。
  週末は年中、遠来の客でにぎわう同センターもがらんとし、建物の横に大きな漁船が2そう重なっていました。
  惨憺たる漁港の光景を覚悟して岸壁に出ますと、そこには、何事もなかったかのような静けさで漁船群がたゆたっています。菊地さんら、生還した海の男たちが守った船。あの笑顔の意味はここにありました。
 
  三陸の浜では、同様に避難を試みた多くの漁船が、深いリアスの湾を出るまでの間に、高さを増した壁のような津波にのまれました。宮古市の重茂漁協では、780隻あった漁船のうち被災しなかったものは14そう、修理して使う漁船を加えても約30そうでした。また、相馬市を含む福島県浜通りでは、全漁港で1173そうあった漁船の8割が損壊しました(同県調べ)。

  「板こ1枚の下は地獄」といいます。東北の海の豊かさと引き換えに、漁の仕事のいかに命がけなものであったか。陸に打ち上げられた漁船の無残な姿をいくつも見た後で、100そうが岸壁に並ぶ光景が奇跡のようにも思えました。

  相馬の漁船群も、現在は、南50キロにある福島第1原発の汚染水放出問題で、「魚の安全性が確認されるまで操業停止を続ける」(福島県漁連の決定)という状況にあります。
  海の男たちも、それぞれに家を流されたり、家族を失ったりし、命を落とした仲間も数多くいます。そこへ、原発事故の影。漁に出たくても出られぬ今への悔しさもありましょう。
  復興への船出へ、より大きく険しいであろう壁を、さらなる忍耐と勇気で乗り越えなくてゆかねばなりません。

http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/byBYaveD3z7UAMNt8Rd2


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相馬市長立谷秀清メールマガジン 2011/04/24号

●震災孤児等支援金支給条例

 被災から40日たって巨大津波の相馬市の被害の全容が明らかになってきた。
 まず、床上浸水以上、つまり津波による流水の前に住人が生命の危機に曝された家屋が1512世帯、住民基本台帳での人口は、前回から修正して5249人だった。その中で、今日の段階で死者および行方不明者の合計は475人。津波襲来の時にこのうちの何人が被災地にいたのかは不明だが、現段階で死亡者の数が一割を切っていることには、驚きと感謝の気持ちを禁じえない。原型をとどめた家屋がほとんどない程の大津波から、9割の住民を避難させたのは地元の消防団員たちだった。しかし、その犠牲者数は前回のメルマガ時から3人増えて10人となった。

 磯部地区の方々が集団で避難生活をしている「はまなす館」で、殉職された消防団員のお母上とお会いして首を垂れた。息子を亡くした心中を察するに、私は何と申し上げたら良いか?お詫びしたい自分の気持ちをどのようにお伝えすべきか?迷いながら視線を上げた私の前で、背筋を凛と伸ばした彼女は気丈だった。

 「止めたのに、仕事だからと言って避難誘導に向かった。やさしくて良い息子だった。残した子どもたちのためにも私はしっかり生きなくてはならない」

 殉職した消防団員10人の子供の数は11名、うち18歳未満は9名である。社会人として自立する前の子供たちを残して、死んでいった彼らの気持ちを思うと胸が苦しくなる。さぞや無念、心残りだったろう。多くの市民を助けた代償としても、余りにも重く、辛い。相馬市が続く限り、市民は彼らを忘れてはならない。
 我われ残された者たちが、父親の無念の代わりを果たすことなど、とても出来ないことだが、万分の一でもの償いと思い、生活支援金条例を作ることとした。遺児たちが18歳になるまで月々3万円を支給するものである。全くの孤児となった、あるいは片親だけを合わせ、今回の災害で親を亡くした18歳未満孤児または遺児は、全部で44人にのぼる。この子らが成長するまでの経済的負担の一部を、市の責任で担っていくことを市民の総意で決めようと考えている。今月の臨時議会にかけ議決を得しだい支給することとしたい。

 財源は、遺児たちのための義援金の基金口座を作ったので、出来れば世界中からの善意をいただきたいと思っているが、不足する場合は市の一般財源で対応する。総額は約2億円。
 もしも、義捐金がこれを突破することがあれば、次には大学進学のための奨学金などに充てていきたい。その際は条例を改正することになるが、もうひとつの条件は、孤児らに、将来強く生きていくための学力をつけさせることである。
 相馬市の小・中学校は4月18日に遅れた新学期を迎えたが、心配したとおり被災地の子どもたちは、心の傷が学習の障害になっている。我われは、臨床心理士と保健師ら常勤6人体制による「相馬フォロアーチーム」を結成し、教育委員会の別働隊として被災児童生徒のサポート体制を敷いた。現段階で2年は継続することとしているが、仮に精神が安定した後もしばらくは、学力向上のためにきめ細かな指導を続けてもらいたいと思っている。
 先日、私のメルマガを読んだというフィンランドと英国のテレビ局が取材に来たので、「貴国の友情をこの子らに!」と呼びかけた。ゆえに相馬市のホームページの義援金口座ワッペンは英語バージョンも用意した。
 拙稿の読者諸兄にもご賛同いただけるよう、平身低頭。



※相馬市ホームページ
 
「震災孤児及び被災者就学資金義援金を受け付けています」

 http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/gienkin/tunami_orphan_J.html


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相馬市長立谷秀清メールマガジン 2011/03/26号

●ろう城

まず今回の地震津波で亡くなられた多くの方々のご冥福を祈りたい。
相馬市の場合、地震の揺れが終わった直後に災害対策本部を召集し、津波からの避難呼びかけと誘導を指示した。海岸部の5027人の家屋が流出て瓦礫となったが、亡くなった方は約一割。多くの方を避難させた消防団の方々に、心から感謝と敬意とお詫びを申し上げなければならない。避難指示、あるいは誘導の業務により逃げ遅れ、殉職された団員が7人。この方々の尊い命と引き換えに守られた、多くの市民の生活と郷土の再建に死力を尽くすことが、私のせめてもの償いと思っている。

さて震災直後は情報収集と生存者の救出に全力をかけた。地震の倒壊による死者はわずかにひとり。その50分後に信じられない報告が対策本部に入ってくる。
津波が6号バイパスを越えようとしているというのだ。私には想像もつかないことだったが、現実は原釜、磯部の集落が壊滅、尾浜、松川も高台以外は波にのみ込まれ、原形をとどめる家屋は無くなっていた。体中に心配と不安が走るなか、災害対策本部の次の仕事は生存者の保護と救出者の健康管理である。夕方の、沿岸部のすべてを飲みつくした海水の中で、孤立している被災者をひとりでも多く避難所に退避させ、暖を与え水と食事を摂ってもらうことに専念した一夜だった。

時間がたつにつれて、行方不明になっている親族や知人の報告が入ってきたが、対策本部の中では誰ひとり感情を表に出す者はいなかった。この非常事態に、市をあげて取り組まなくてはならないことを全員が分かっていた。被災の10時間後、4回目の対策会議で我われは、復興にむかって一歩ずつ進んでゆくことを誓い合いながら、今後の行動指針を短期的対応、中長期的対応に分けて策定した。明日になれば、災害の全容がわかるだろう、犠牲者の情報ももっと詳しくわかるだろう、しかしどのような事態であっても臆することなく、着実に計画を実行していくことを肝に銘じた。

二日目以降の避難所は、被災者とライフライン不通による一般避難民とで過密状態となったが、女性消防隊や自衛隊の応援による炊き出しや、早くも届いた支援物資で何とか最小限のことは出来たと思う。家を無くされた方々の避難所生活から、アパートや仮設住宅での自立した生活に移行してもらうこと、災害現地をできるだけ整理すること、またそれまでの長期にわたる不自由な生活のなかでの健康管理や精神的なケアなど、中長期の計画に添ってチーム一丸となって歩み始めた。

ところが。
45キロ離れた遠くの双葉郡から、二度目の悪魔が襲ってくる。放射能の恐怖という不安心理である。広がる一方の原発事故は一日中の過敏報道とともに、周辺地域はもとより日本中を恐怖心に駆り立ててゆく。半径20キロの範囲が避難指示地域になったころから、相馬市にも遠くに逃げ出そうという気分が広がっていった。
同時に国内の物流業者が敏感に反応し、相馬地方やいわき市に入ることを避けるようになった。ガソリンのタンクローリーなどは郡山で止まってしまい、運転手をこちらから向けないと燃料も手に入らない。震災後わずかに開いていたコンビニやスーパーも商品が入って来ないため閉店である。ガソリンと物資が入らない日常生活の不便に加え、原発の放射能拡散の恐怖が相馬地方を襲ったのだ。

市民は終日テレビにかじりつき、解説者は得意げに危険性を説明する。たしかチェルノブイリでも30キロのはずだったが、45キロ離れて避難命令も出ていないはずの相馬市民の顔色がみるみる不安にあふれていく。
もしも放射能の数値が上がったら、その時避難したのでは遅いのではないか?
国は、本当は健康被害が出るくらいの危機的状態なのに、国民を騒がせないために隠しているのではないか?
ひょっとしたら今こそが逃げるべきタイミングなのではないか?
現に米国は80キロまで避難させたではないか?
事実、屋内退避とされている南相馬市では大量脱出が始まった。ガソリンも食糧も医薬品も届かない陸の孤島にいたのでは、ヒロシマのように爆発してからでは遅いのだという恐怖が、まず南相馬市民を相馬市に向かわせた。相馬市の避難所に押し掛けてきたので、こちらでは新たに廃校となっていた相馬女子高を南相馬市民のための避難所とした。容量は1000人分。もちろん食糧の提供もこちらの義務となるが、我われより困っているのだと思ってひき受けることにした。災害対策本部には、一瞬顔をこわばらせるものがいたが異論は出なかった。

しかし、南相馬市民の不安や脱出願望を肌で感じた相馬市民にも危機感と焦りが生じてきた。早く逃げないと、放射能による障害をまともに受けるのではないかという不安が蔓延するようになってきたのだ。対策本部としては、国から避難命令が出る前に、自分たちで自主避難を決めることはあり得ない。この当たり前の立場を対策会議で確認して、三か所の避難所で演説してまわった。

我われはその後の対策会議で、復興に向けて着実に進む方針を、短期対応、中期対応、長期計画と分けて市内の実情に合わせて着実に進んでいくことを決めてきた。その過程で、もしも国から一時避難を指示されるなら、市民の健康や生命を案じて計画的な集団避難を実行しなければならないが、漠然とした不安にかられて復興計画を遅らせるとしたら、亡くなった人たちに済まない。だいいち、高齢者などの災害弱者にとって、相馬を離れた避難所生活が辛くないはずがない。だから、国から避難指示のない現段階で、市民とともにこの相馬市を離れるつもりは毛頭ない。

ところが、原発の放射能もれに対する国中の不安が、相馬への物流を決定的に止めてしまった。影響が特に厳しかったのが医薬品である。この点は供給会社のトップと話して、相馬がどうしても撤退できない理由を理解してもらった。彼らの理解を得て医薬品の供給は確保されたので、相馬の医療機関は留まることができる。しかし、問題はスーパーやコンビニで、生活用品や食料を調達できないことである。
市民にはご不自由をかけているが、ここで生活の不便さや原発の恐怖心に負けてしまったら、相馬地方は将来ともに復興が出来ないに違いない。昨日、行政組織の区長さんたちを集めて、相馬市はろう城生活に入ることの了解を得た。いつまでも続くはずもない原発騒ぎや物流の風評被害に負けたら、津波から被災集落住民の命を守って殉職した分団長や団員に申し訳がない。
最低、米と味噌と梅干しがあれば、生きてはいける。天明の飢饉はもっとひどかったはずだ。よってろう城をしながらここで頑張る。さいわい全国の市長たちが支援してくれるから、兵糧の心配はない。


http://archive.mag2.com/0000096393/20110324080000000.html



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